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  情緒力の低下が国滅ぼす

藤原正彦
(ふじわら・まさひこ)

1943年 旧満州新京生まれ
数学者、お茶の水女子大学教授。
専門は数論
78年、『若き数学者のアメリカ』を発表後
独自の随筆スタイルを確立し
『遥かなるケンブリッジ』『数学者の言葉では』
『父の威厳 数学者の意地』
『心は孤独な数学者』
『祖国とは国語』など、著書多数

読書離れ・・・ 情緒力の低下が国滅ぼす
朝日新聞 私の視点  2002年6月15日(土)

 世は情報時代である。かつてない豊富な情報に恵まれた人々が、確かな判断力を発揮する時代のはずである。それがそうではなさそうである。

 学校現場ではいじめ、不登校、落ちこぼれが増加し、小学生から大学生までの学力低下が顕著である。多くの人々がこの事態に眉をひそめ、原因について様々な分析や打開策が提示され、いくつかの改革もなされてきた。しかし、一向に改善されない。

 教育ばかりでない。不況は10年たっても克服されないが、現在にいたるも不況の真因が把握されているように思えない。教育でも経済でも、本質はすでに表に出ていると思う。それが本質と認識されていないだけである。豊富な情報が、かえって本質を見えにくくしている。

 情報時代にもっとも大切なのは、情報を集める能力でなく、過剰な情報に溺れず、そこから本質を選択する能力であろう。この能力は論理的思考によって得られるのではない。

 競争原理の導入について、経済繁栄や組織の効率化に不可欠と考える多くの人々がいる。弱肉強食の社会を作り貧富の格差を不公正なほど大きくする、と懸念する人々もいる。周囲の人々といたわり合い助け合い穏やかな心で生きる、という日本人本来の生き方を難しくすると憂慮する人々もいる。

 どれも論理が通っているから、何を選択するかに論理は役立たない。いくら情報を集め専門知識を集めたところで、どれを最優先すべきかは別問題である。

 選択は情緒による。家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛、卑怯を憎む心、もののあわれ、他人の不幸への感受性、などといった情緒がどれをどれほど重視するかの価値判断に働く。

 経済さえよければと考える人や、効率を追う合理主義者は、実力ある者が報いられる競争社会にもろ手を挙げて賛成するだろう。他人の不幸に敏感な人の目には、競争社会は一握りの勝者と大多数の敗者を作るもので、ケダモノ世界への逆戻りと映るだろう。もののあわれを鋭くもっている人は、経済や効率を低次元のことと見なし、それに狂奔する人々を憐れみ、質素でよいから穏やかな幸せを希うだろう。競争原理をどの程度取り入れるべきかは情緒力により決まる。本質を見失い一つの論理で突っ走りがちな現代、情緒力はますます重要となっている。

 情緒力を育むのに、自然や芸術に触れるのは有効である。生活体験も大切と思う。ただ個人の実体験は余りにも限られている。そこで読書が主役を担うことになる。先述の四つの愛、卑怯を憎む心、正義感、勇気、誠実、などは感動の物語や小説や詩歌を読み、涙とともに胸に深くしまいこむのがよい。もののあわれには古典が適していよう。他人の不幸への感受性については、伝統的にもっともよい教師であった貧困を失った今、貧困の悲しみや辛い運命を描いた作品に触れる必要があろう。

 統計によると先進国中、日本の中高生は最も本を読まないという。読書離れである。理科離れは科学技術立国を危うくし、ひいては経済を衰退させるとして大きな話題を呼んでいるが、読書離れは時代の流れととる向きが多いのか、さほどの関心を集めていないようである。読書離れの方が重大である。それは、人々の情緒力低下を招く。すなわち数ある論理の中から最も本質的なものを選び出したり、価値判断を加えたりする能力を減退させる。これは国民の方向感覚を失わせ、ひいては国家を滅ぼすことになるからである。

藤原 正彦(数学者・お茶の水女子大学教授)  

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