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お辞儀の秘密(干し柿仙人)抜粋
「お辞儀の秘密 アメリカ人教師のニッポン呆然日記」、
ブルース・S・ファイラー、山本俊子訳、早川書店、1995
に指摘された事実とそれらをめぐる議論
・アメリカではシツケは親の役割だが、日本では教師が専門家としてシツケ
を期待され、学校にも<品位、健康、誠実>といった教訓が張ってある。
(pp43-44)
・3年生が2年生をリンチしたのは、「サン」を付けずに呼んだからだった。
(p45)
階級社会の開始が中学時代であったことは、私の経験に照らしても正しい。
・そしてその3年生達は、正座させられ、学校のリーダーとしての自覚のな
さを糾弾され、竹刀でたたかれた。(p46)
・「生徒は学校を出たら何をしてもいいと思っている。ヘルメットはいつも
かぶっていなくてはいけないということは知っているんです」(p47)
これらの指摘は、赤信号を守れない学生がどのようにして作られるかを示唆して
いる。権力によって無理矢理守らされる規則とそのために規則の本来の意味を考
えることのない生徒達。
・運動会でピラミッドを作る生徒達は、自分たちが楽しいと思わないのにそ
のことを先生にいえず、運動会自体も楽しんでいない。アメリカでは、生徒
が楽しまないお祭りはない。(pp57-63)
運動会という競技自体が、子どもに集団への従属を強要し、感情を押しつぶすこ
とを教える場になっていることが指摘されている。
・校長は、そり込みを入れてきた生徒達の頭をフェルトペンでぬった。(p74)
個人の尊重を心掛けている国では、このような行動はありえない。
・非常に厳しい校則、特に服装の規則がある中で、上級生達は、ボタンを外
したり、靴下の上を折り返すといったことを下級生に許さないという規則を
つくって、先輩風を吹かせている。(p79)
私の経験にもあるが、なんと小さな世界であることか。このような世界に住む生
徒達に広い世界を想像する余裕などあるだろうか。
・佐野中学ではゴミの日を設け、年に一度、町のごみを拾うという奉仕活動
を行う。それは、教室の掃除にはじまり、トイレや職員室の掃除から運動場
の草刈りを経てつながる、”義務”を教える教育の最大規模のものである。
このような訓練によって、異質なものを疎外する精神が生まれ、共同体の倫
理が教え込まれる。(pp93-100)
アメリカでも、奉仕活動があるが、それは生徒が集団で行うものではない。また
清掃作業なども専門業者が行う。自分が使う教室を自分が掃除するのは当たり前
と考えがちだが、そんな事まで再度検討する必要があることをこの事例は指摘し
ている。
・生徒に毎日の昼食の準備と後片付けをさせることは、学校の費用の節約に
なるということもあるが、主たる理由は、それを通して、生徒に勉強以外の
活動でも互いに協力することを教えるためだ。(p103)
「息子を・・・」では、教室で食べる給食が、メニューの選択により意志決定の
習慣を疎外していることや、他学年との交流を疎外していることを指摘していた
がここでは、掃除同様、それが、集団への奉仕を教え込むものであることが指摘
されている。
・アメリカでは教師による家庭訪問はない。日本では家庭訪問をし生徒が一
日何時間勉強し、何時間TVを見、部屋がどんな様子だったかを報告しなけ
ればならない。(p157)
日本では生徒を国家が管理している姿が浮かび上がる。
・日本では夫婦の愛情表現が少なく、母と子の関係も愛情より教育ママとい
う言葉が現すような叱る親として表現されることが多い。(p153、p155)
・人気投票では、ネッケツセンセイは10対1の割合でキョイウイクママを
圧倒するだろう。(p159)
そして、そこには、「もう学校へは行かない」で見たような子どもを伸び伸び育
てたいという親の姿は登場しない。
・日本の教育でもっとも皮肉なことの一つは、学校はあまりにも多くの
時間と労力を道徳教育とか国民的自覚、相互協力といった精神面の教育
に使うため、教師が本来の教科に費やすべき時間がなくなってしまうこ
とである。
ここまでにも指摘されているし、この後にも指摘が続くが、私たち日本人があまり
意識しない事実のもっとも重要なものがここにある。つまり、たびたび言及される
道徳教育の強化などといった対策は、何の意味ももたないし、むしろこのようなゆ
がんだ学校教育を是正することこそが、日本の教育に求められているのだといえる
のではないだろうか。
・卒業というのは、日本人がその生涯のなかで、一つのグループから他のグル
ープへと送られるたびに通り抜ける多くの通過点の一つにすぎないのだ。この
ように管理という遺産のことを考慮にいれれば、日本人が雇用主や同僚に対し
て感じる”甘え”の感情はさらに理解しやすいものとなる。つまり、ほとんど
の日本人が自分自身の意志で行動したことがないのだ。(p198)
この指摘は実は私の主張と多くの共通点を持つ。3月9日の日記に、日比谷線の事故
で犠牲になった高校生の校長がインタビューを受けることのおかしさを指摘してい
るし、主人公では、このような教育の結果としてこの社会を自分達のものであると
感じることができなくなっている人々の姿を指摘している。
・佐野代表の国会議員 田中正造は、日本初の草の根の環境保護運動を指導し
た人物である。大衆のデモンストレーションと国の法律をもってしてもこの汚
染を防ぐことができないとわかって、1901年に田中は東京にでかけていき、天
皇に直訴した。しかしこれも失敗に終わり、田中はその運動をやめさせられる。
(pp206-207)
この国が正義を尊ぶ国であれば、この人の名はもっと尊重されるのではないか?
・西洋でロック・ミュージックをあれだけ盛り上げた原動力となった、権威に
対する挑戦のメッセージは日本には根づかなかった。
・私は一度、十代のパンクたちが日曜の朝出てきて、街に”たむろ”して”自己
表現”をする東京のある場所に行ってみた。そうしたパンクたちは黒の革ズボン
をはき、髪に油を塗り、金属をはめこんだ靴をはいていたが、ロンドンやニュー
ヨークの彼らの同類の持っている憎悪に燃えた造反スローガンをぶちかましてい
るようには見えなかった。パンクはその政治哲学を失い、日本の服従精神のもの
やわらかなサイドショー以上のものではなくなっていた。(p211)
・社会見学の自由行動は、班ごとに時計係り、記録係り、会計係などの係りを設
定し、他のメンバーがその係りに従うことを要求した。このようにして、日本人
が他のメンバーに依存する習慣が作られていく。
これは、私の実体験にはない。しかし別の場面では似たような経験がある。そしてこ
のように指摘されれば、なるほどと感じる部分もある。
・「英語は単なる言葉以上のものだ。」「心をあらわす手段なんだ。英語を話す
ときに日本語を話すのと同じやりかたで話したら、たぶんその英語はまちがって
いる」(p249)
この指摘も言葉に注意を払って、映画を見始めた私の観察と一致する。そしてしばし
ば、この法則を知っている翻訳者が原語と全く異なる翻訳をして私を苛立たせる。私
が知りたいのは英語の精神なのに、日本語に置き換えられたら英語の映画を見たこと
にならないからだ。
・アメリカに行った少女ミアの話
当初、アメリカの学校が嫌だった。日本に帰りたいと思った。
「最初は、授業中に手を上げる生徒の数にびっくりしました。」
「みんなが話をしたがり、質問に答えたがるんです。」
・日本に帰ってきたときの話。
「日本の授業はひどく退屈に感じました」
「だれも手をあげませんし、質問に答えるものもいません」(p250)
・1980年代後半に総理大臣の要請で作られた教育改革案のなかで文部省は
個性を育てる新しい時代をうたい上げた。「日本の教育者はここであらためて
”人格の完成”とは何を意味するかを考え直し、個人の尊厳の重要性と個性の
尊重に重点をおかねばならない。これは日本が西洋に追いつこうと近代化を急
ぐあまり、これまで無視されてきたものである。」(pp250-251)
しかし、「現代用語の基礎知識2000」にあげられた「学習指導要領の改訂」にはこ
こにあるような「個人の尊厳」や「人格の完成」はあげられず、「個性の尊重」の
みが取り入れられている。もっとも個性といっても学習能力のみである。
それは、
(1)授業時間を年間70単位時間(約一割)を削減する、(2)教育内容を約三
割削減して、教育内容の厳選をはかる、(3)小学校三年以上の全ての学年に「総
合的な学習の時間」を設け、問題解決的、探求的な学習を推進する。(4)小学校
高学年から選択学習を導入し、また習熟度別の学級編成やチーム・ティーチングな
ど指導方法の弾力的運用をはかる、などの提言を具体かしたものである(現代用語
の基礎知識2000 p735)
ここには、国旗を義務化し、学習塾を認めた文部省が個人の自立など少しも望んで
いないことが示されているといえるのではないでしょうか。この本で指摘されてい
る”集団への従属を強要する教育”の見直しが議論になっている例を私は知りませ
ん。
そして、今日の朝日新聞は、兵庫県龍野市で広がる体罰廃絶の動きを伝えている。個人
の尊厳はやはり、まだこの国の教育に根づいていない。
お辞儀の秘密(干し柿仙人)抜粋
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