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テストをしない学校では本当の勉強ができる。
試験制度は啓発の邪魔をするからだ。
ゆとり教育とは別のものだ。
しかし、そんな学校が存在できるのか?
資格も得られず、試験も単位もない学校
http://www.asahi-net.or.jp/~pv8m-smz/archieve/Gott_Mensch_Erde1.html
キリスト教の真理、キリストの言葉は、教会に集う無学だが敬虔な信徒の間によみがえるという理解に至り、これに共感した農民たちが、デンマーク国教会の改革運動に乗り出していきます。
グルントヴィは、こうした農民たちの台頭を楽観的に見ることが出来ませんでした。農民たちの実力が高まったとしても、彼等の声が国政に反映され、農民とそれ以外の人々(ブルジョアジーなど)との平等が達成されることが必要であり、それが出来なければ、民主主義は一転して衆愚政治になってしまう。そして、衆愚政治とさせないためには、国民の多数を占める民衆(農民)が高いレベルの学問を身に付けなければならないと考えたのです。
グルントヴィは、自分の理想とする学校の姿を本にまとめ「生のための学校」として世に出します。それによれば、グルントヴィはイギリス留学中にケンブリッジで経験したカレッジをモデルとした学校を考えていたようです。教師と学生が寝食を共にし、親密に生きた言葉によって語り合う中で、それぞれの生が生き生きとしたものとなり、生への期待を喚起することになるからです。
ここで、「生きた言葉」で語り合うと申しましたが、グルントヴィの念頭には、死んだ言葉、死んだ学問の代表としてラテン語学校がありました。グルントヴィ自身は、こうした古典語の素養の豊かな人物でありましたが、かつて通ったラテン語学校での体験が、彼にこうした思いを抱かせたのです。そこでは権威主義的な教師によって無味乾燥な詰め込みの勉強が強いられ、学校の雰囲気自体も窒息しそうなものであって、このラテン語学校のことをグルントヴィは「すべてが人をだめにし、怠惰にさせ、腐らせるもの」と表現しております。グルントヴィの理想が「生のための学校」であれば、さしずめ彼が体験したラテン語学校は「死の学校」とでもいうべき存在であったのでしょう。もし、現在の日本の学校を見たら彼は何というでしょうか?
「生きた言葉」で語り合い、それぞれの生を深めて行くことが目的であれば、そこに資格や試験、単位などが入り込む余地はないとグルントヴィは考えました。彼によれば、試験とは「年長者が、若者の経験の範囲では答えられず、ただ他人の言葉を繰り返すことで答えとするに過ぎないような質問で、若者を苦しめるもの」なのです。こうした「受験制度」の帰結がどうなるのかを、彼は、150年以上も前に見抜いていたことになります。また、職業訓練を導入することも認めることは出来ませんでした。それは、生のためではなく、利益のためだからです。
資格も得られず、試験も単位もない学校が、果たして存在できるのでしょうか?受験という目的があるからこそ子どもたちは机に向かい、学力を身に付けて行くのではないでしょうか?しかし、グルントヴィは、学校のシステムは試験に基づくべきではなく、「全ての賢明な学校のシステムは、絶えざる啓発に基づくものでなければならない」と主張します。こうした啓発は、試験制度では押し殺されてしまうのです。
グルントヴィは、こうした自分の理想の学校を「フォルケホイスコーレ」と名付けました。
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たかぎ さとし
高木 諭
(毎日新聞埼玉東支局)
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絶対評価の導入に対応
都心から電車で1時間弱、春日部市南部の田園地帯にその学校はある。生徒数315人の市立谷原中。大規模団地を学区に抱え、生徒の大半はサラリーマン家庭の子供たちが占める。同中と同様の措置は栃木県鹿沼市立東中学校が4年前にすでに打ち出しているが、その試みはほとんど波及しなかったのが実情だった。文部科学省教育課程課の担当者も「定期テストの実施は各校の裁量に任され、報告義務がないせいもあってか、他の例は聞いたことがない」と話す。
そんな中にあって、谷原中が廃止を決めたのは前任の校長の提案が発端だった。新学習指導要領への移行に伴い、生徒の成績評価が集団内での位置を示す「相対評価」から、学習目標への到達度を図る「絶対評価」に変わるのを半年後に控えた昨年末、教職員に打診した。今は市内の別の中学に勤務する前校長は「定期テストの成績に重点を置く従来のやり方では、新しい評価の徹底を図れないという観点からだった」と説明する。
「当初は教職員の間でも圧倒的に不安の声が大きかったが、意識改革を訴える校長の主張を最終的に受け入れた」と斉藤彰男教頭は振り返る。今年4月に赴任した野尻国雄校長も「正直言って不安だった。だが、校長が代わったからといって、いったん決まった方針を覆すわけにはいかなかった」と打ち明ける。結局、「1学期の様子を見て、夏休みの間にもう一度話し合うということでスタートした」(野尻校長)。
授業態度やリポート、小テストなどで評価
定期テストを廃止する代わりに同校は、科目ごとの小テストや単元テスト、それよりも長いスパンでの理解度を見る「あゆみ診断テスト」のほか、学力診断テストを1・2年生は年1回、3年生は3回実施する方針を決めた。いずれも成績の順位付けはせず、個々の到達度をみるのが狙いだ。評価はこうしたテストの結果だけでなく、日々の授業態度やリポートの提出状況などにも重点を置いてつけることも確認した。
斉藤教頭は「従来は中間、期末の結果を主体に評価を付けていればよかったが、今は日常的な評価が義務づけられている。小テストや単元テストも作成するため、教員の負担は3、4倍に増えた。その分、生徒の授業態度に緊張感が増した」と話す。教務主任の神長正晴教諭も「生徒は明らかに日々の授業を大事にするようになった。以前は定期テストが終わると、しばらく緊張感が抜ける傾向があったが、それもなくなった」と成果を強調する。
不満くすぶる親、不安募る生徒
保護者の見方はどうか。学校側は「不安の声は聞かなくなった」と説明するが、取材してみると、相当な不満がくすぶっていた。1年の女子生徒の母親は「自分のことを振り返っても、定期テストがあるから勉強していたのが実情。今でも小学生気分が抜けず、家で勉強していない子供を見るにつけ、テストがないからだと考えてしまう。早く復活させてもらいたい」と訴える。
2年女子の母親も「周りを見渡しても不安に思っている親の方が多い。うちもそうだが、塾に通わせるようにした家庭も増えた」と話す。中には「前任の校長はとんでもない置き土産をしていった」とこぼす親もいる。
春日部市は都内の私立中学への通学圏内。来年4月には市内にも中高一貫の私立中学が開校する。そうした地理的条件も重なって、学区内の小学生の間では私立受験の動きが目立っている。6年男子の母親は「公立の地盤沈下が叫ばれているのに定期テストがなければなお、不安。周りでも私立に進学させようとする親が少なくない」と話す。この母親が住むマンションでは5、6年生の半数ほどが私立受験を目指し、塾通いをしているという。
「廃止と聞いた時はうれしかった」「授業をまじめに聞くようになった」と評価する生徒がいる一方で、「進学を控えているのに大丈夫かなあと思った」と打ち明ける3年の生徒もいる。生徒の反応は複雑だ。「以前は試験前1週間は家で必死に勉強していたけれど、今はあまりしなくなった。自分の学力がどの程度なのか分からないので、それは塾で補っている」と話す生徒もいる。
3年のあるクラス全員に聞いてみると、「廃止になると聞いた時、よかったと思った」のは79%なのに対し、「今現在、よかったと思っている」のは18%という結果だった。
利点は「きめ細かい指導」の実現
さて、気になるのは先駆けとなった鹿沼市立東中の現況だ。三添憲公校長は「保護者からの不満も聞かなくなり、生徒の授業態度もよくなった。教職員の負担が増したのは事実だが、子供たちの変容を実感しているため、元に戻そうという意見はない。進学状況もいい方向に向かっている」と話す。
同校によると、「学区内にある比較的難易度の高い高校」に進学した生徒の割合は2000年度は22・84%だったのに対し、01年度は28・97%に増加したという。三添校長は「個人の到達度に合わせて細かい指導をしているので、勉強が苦手な生徒にとっても、いい方に作用している。学校全体に落ち着きも出てきた」と補足する。
まさに、いいことずくめのように見えるが、だとすれば、なぜ、他校に波及しないのだろうという疑問がわく。三添校長は「学校側の負担が大きいのが原因でしょう」との見方を示す。
一方の谷原中は来月にも生徒や保護者を対象とするアンケートを行い、その結果も参考にして、来年度の対応を決める方針だ。果たしてどうなるか。
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http://www.jam-st.ne.jp/ch8/main_ch8.html
ほとんどの若者が経験する、ギムキョーイク以外の学校の場
それは自動車学校(教習所)である。
出身校も偏差値も内申書も関係ない。
入学目的が具体的かつ明確である。そして、試験はかなり公平に公正に行われ、受験生は、みんなけっこう真剣に取り組んでいるのである。
これって純粋な『学校』だと思いませんか?
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http://www.niji.jp/home/lesekreis/jukutyo/page/ronbun3.html
今こそ、新たな理念を
香川は、いわゆる公立優位の県である。数年前、ある私立が10数名の東大合格者を出したとき、「これからは私立の時代だ」と声高に叫ぶ塾もあった。(※注)しかし、「東大合格者」の数のみに関心をもち、中1から東大を意識させ、合格すれば桜の木を植える、などという子供じみたことを行う私学に発展があるだろうか?また、新しい私立が、来年度に初めて大学入試を迎える。ただ、一方でいわゆる「救済」的な私学を経営しながら、その一方で「一流大学進学」を謳っても、直ちには信用し難い。他のいくつかの私学もあるが、多くは、公立の「滑り止め」というのが現実だろう。
(※注 近年は、この地区(香川は2学区制)の公立トップ高校とほぼ同じ5名程度であり、京大を合わせると、公立高が2倍近い。また、県内一の公立進学校は20名前後の東大合格者を出している。)
一部の「意識の高い」保護者は、高校入試がなく、大学入試に有利であることを信じて、私学受験に走ってはいるが、それは一般的な趨勢とはなっていない。従って、当地での「中学受験」は、国立大学の附属中学の入試が主たる関心事と言ってよいだろう。(※注)勿論、2002年度からの「新課程」を先取りする形で「先進的に」行われてきた、「総合学習」を初めとする様様な「実験」の極めて当然の帰結としての学力低下が公然のものとなり、附属入試熱は、以前ほどではない。入試問題も、その難易度は明らかに低下している。また、来年度から、公立の「中等学校」(いわゆる6年制の中等教育学校)が創設されるが、果たしてどれほどの個性が発揮されるだろうか?
(※注 それは、高校入試において、公立の進学校への進学者数が多いという理由による。少なくなったとはいえ、約半数が公立トップ高校へ進学する。高校入試はあるが、変則的な一種の「6年制」が存在するかのようである。)
私の塾には「私立中学生」はいない(私立高校生もいない)。要望がないのではなく、入塾を許可していないのである。例年、当塾の50名前後の小学6年生のうち、約半数が附属小学校の生徒と附属中学を受験する子達、数名が私立へ、残りが一般の公立中学へ進学する。しかし、公立へ進学する子達も含めて、学力的には全員が附属中学に合格する力(と言っても、それほど特別なものではないが)の獲得を目指している。「受験勉強」は、この年齢の子供たちにとって、一種の知的トレーニングとしては有効だと思うからである。こうした『在り方』から言えば、確かに「中学受験を応援している」と言えなくはない。
(ここからは、「新教育課程」及び「教育改革国民会議」の17の提言が周知のものとして述べることにする。)
懸命に教え学ぶ(この場合、それは子供たちの側だけを意味しない)ことの中にこそ、「生きる力」や「自ら学び考える力」そして、それを土台にした「創造性に富む」力が生まれる(ないし、芽生える)のであって、「生きる力」のために、「総合学習」をというのは、現状の学びが、いかに機能していないかの逆説的表現でしかない。IT教育を標榜することの根底には「科学的認識」の普遍性信仰があるのだろう。しかし本来、科学的思考は、現状分析を不可欠の要因として持つ。つまり、「教育の危機的状況」が事実であるのなら、それを数量的に明確に示し、その状況を「引き起こした」原因が何であるかを特定し、その原因を絶つ形で、「新しい」指針を提示しなければならない。徒に「危機」を煽り、「奉仕活動」等の思いつきの指針を提言しても、更には、形式だけの「中高一貫」を追求しても、何の「解決」ももたらさない。そこに見るのは、ノスタルジーであり、「別の意図」である。(例えば、少年刑法犯のうち、殺人犯は1998年は1949年の3分の1でしかないし、ここ20年来、その数に大きな変化はない。それでも「少年法」は「改正」されようとしている。)
「一律主義」であったと反省するのであるならば、その「一律主義」を押し付け、せっかくの少数の真面目な教師(「絶望」に近い状況の中でも、それをどうにかして変えたいと奮闘している教師の存在があることは間違いない。)の創意工夫を踏みにじってきたものの正体をこそ白日の下に晒すべきである。そもそも指導する者に創意工夫がなく、子供たちにそれを求めることなど不可能である。結論を急ごう。
つまり、「文部省」(文部科学省)は廃止すべきである。少なくとも、「指導要領」の(持つと言われる)「法的拘束力」を廃止すべきである。ついでに「内申書」も廃止すべきである。その「元凶」を放置したままで、いかなる「改革」を叫んでも、それは「改悪」にこそなれ、決して改善にはならない。そういう意味では、私立も、「元凶の手の中」にある。従って、(私の知る限り)ほとんどの「有名私立」も当然の如く、「有名大学合格者数」をその「実績」としている。決して、「生きる力」で「評価」されてなどはいない。
矛盾は安定の中から生まれ、その矛盾との抗争の中から、矛盾を根底的に止揚する形でしか新たな方途は生まれない。その新たな方途の線上にある限りにおいて、そして、受験というある種の競争が、受験生本人に起因しないこと(出自や親の職業等)で妨げられないものである限り、私は中学受験を応援する。しかし、それは当地に関する限り、「私立受験」ではない。
受験突破を目指して努力すること、それは何も小学生や中学生に限ったことではない。広く社会を見回しても、数々の試験が存在する。プロの選手になることも、あるいは「選挙」も、それは試験と呼べるものであるし、競争と呼べるものだろう。しかし、「二世三世国会議員」の多さが、「政治不信」の一つの重要な要因に挙げられるように、正当な競争は少なくなっている。私立受験・進学が、一部の経済的に恵まれた層の一種の「特権」としてあるのなら、塾がその「片棒を担ぐ」ことは、「矛盾」を更に助長し、停滞と社会階層的格差の固定化に寄与するものでしかない。
私の塾は、変則的な6〜8年の一貫制をとっている。(高校生の塾生の6〜8割が小・中学校からの塾生である。)そして、「危機的状況」と言われる公立・国立中学や公立高校の中で苦闘する子供たちと共に、大学入試において「私立」に劣らない「結果」を出すこと、そして大学「後」の進路において、社会的諸矛盾を解消する地平で活躍することを目指している。それは、逆説的な意味で、私立の応援にもなっていると思っている。(未だ力不足だが)
《2001年「塾ジャーナル」1月号に掲載》
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