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自我意識の未発達は未開野蛮の証拠なのだろうか。
人間の自我意識の発達イコール文明の進歩と断定できるのだろうか。
そう言えるならば、日本人はたしかに野蛮人だ。
なにせ自我が未発達なのだから。
しかし科学技術を野蛮人がマスターできるのか。
できるとすれば科学技術そのものが野蛮の範疇に属していることになる。
日本人が野蛮人ならば、科学技術を発明した西洋人はもっと程度の低い野蛮人だと言わねばならない。
「生者必滅、盛者必衰」の歴史法則に例外は無い。
進歩するものはいつの日か必ず停止する。
そして退歩し始める。
人類は今刻一刻と滅亡に向かって突っ走っている。
個性化とか自我意識の発達を物差しにして文明の程度を測ったところで、いったい どれだけの意味があるのか。
面白いことに、いつの時代も文明人と自負する人々は自分たちこそ最高の文明人だと信じて生きていた。
エゴイズムにどっぷり漬かって生きていた。
日本人はいささか趣を異にする。
海の向こうに最高の文明があると信じていつの時代も生きていた。
謙虚な心で生きていた。
「無私」が日本人の心に生きていた。
しかし現代日本人は無意識の裡に「無私」に従っているが、意識の表面ではエゴに従っている。そこに葛藤、分裂が生じた。
それで自分の思考や行動が支離滅裂なのに、日本人はまったく気が付かない。
昔のように「エゴを殺せ、否定せよ」なんて言っても、現代日本人には通用しない。
矮小幼稚なエゴだけれど、それを是認し肯定するより他に途はない。
エゴを鍛えに鍛えて、鍛え抜き、これを地球大にあるいは宇宙大に成長させる。
そうしたらこの世のすべては自己の一部になる。
自他を区別する必要も無くなる。
その時エゴは消える。
丁度熟した果実が自ずと枝を離れて落ちるように。
青い未熟な果実はしっかりと枝にくっついている。
エゴは青い果実なのだ。
何も無理して否定して、枝からもぎ取ろうとしなくていい。
「無私」になろうとしてもそれは不可能だ。
「無私」を求めている者は誰か。
エゴではないか。
「無私」を求めれば求めるほどエゴは大きく育つことになる。
しかしそれも悪くはない。
極限まで大きく成長させたなら、エゴは自然と消えるのだから。
無闇にエゴを否定しないことだ。
有るものは有ると素直に認め、鍛えに鍛えて、強く大きく育てるほうがいい。
欧米人のエゴは充分に成熟を遂げた。
まだ少数ではあるが、日本人の「無私」を評価できる程に成長したエゴすら存在する。
これは驚くべきことだ。
日本人も欧米人と肩を並べたいのであれば、彼等と同じくらい強靱で柔軟なエゴを養い育てることだ。
そうすれば、いつの日かエゴはおのずと消えるだろう。
信仰の対象をあれこれ吟味するようでは、「無私」に程遠い。
石門心学の祖石田梅巌は
「今日我朝ニテハ(神儒仏の)三道ハ金銀銭ノ如クニ一方欠テモ身ヲ修ルニ悪カルヘシ」
(『語録』一二九)
と喝破し、諸宗教を適宜使い分けるのが正しいと説いた。
現代日本人も信仰の対象をやかましく詮議しない。
結婚式はキリスト教の教会で挙げ、マイホームを作る時には神道のお祓いを受け、葬式は仏教僧侶の読経で済ませる。
意識の奥底に「無私」があるからだ。
新年の初詣も別にどこの神社仏閣と決まっている訳ではない。
「新しい年も無私の心で過ごせますように」
と祈ることのできる所ならどこでもよろしい。
登山やスキーのついでに「初日の出」を拝んでもよろしい。
お賽銭をあげたからといって、御利益を期待している訳ではない。
平生は命から二番目に大切にしているお金を差し出して、無私の気分をチョッピリ味わっているだけだ。
夏のお盆に帰省して墓参りをするのも、ご先祖の無私の魂との結びつきを確かめるためだし、地鎮祭などの神道儀式も神々の加護を祈り、無私を思い出すためだ。
現代日本人は平生自分が無私から程遠い生活をしているだけに、いつ怨霊の祟りを受けるかと、不安に戦いている。
無意識の領域から命ずる声なき声、無私の呼び声には抵抗できない。
「そんなバカバカしい、不合理なことがあるものか」
なんて思っても、経営者は会社ビルの屋上にミニ神社を祀らずにはいられないし、総理大臣も新年の伊勢参りを欠かせない。
神は不可知である。
誰も神を定義できない。
信仰を持っているからと言って、誰も神を知っている訳ではない。
人間に可能なのは神を定義することではない、己の信ずる対象に対して無私になることだけだ。
宗教が違えば、教義も戒律も儀式も信仰対象も様々に異なる。
しかしすべての宗教が完全に一致する点が一つだけある。
すべての宗教が「信じなさい」と言う。
「自分の身も心も、持てるものすべてを神に捧げ、委ねなさい」と言う。
要するに「無私」を求める点ではすべての宗教は一致している。
我々は古来の伝統である「無私」に基づいて生きていることを自覚するとき、初めて外国人との間に相互理解に達する可能性がある。
「無私」はあらゆる宗教の原点である。
これ抜きにはどんな宗教も成り立たない。
信ずる宗教が違うからと言って反目しあうのは、「無私」でないからだ。
そんな信仰は贋物だ。
日本人が神仏に頭を垂れていても、神仏を拝んでいる訳ではない。
神仏は言わば、化学実験で使う触媒、仲介役に過ぎない。
神仏の代役を勤められるものは、それこそ無数に存在する。
だからこそ日本人は八百万(やおよろず)の神々を持つ。
日本人は八百万の神々の背後に「無私」を見、それに拝跪している。
日本の伝統は「無私」である。
そしてそれはいかなる戒律も教義も規範も絶対視することを許さない。
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